天明噴火の経過(旧暦)
• 4月14日:噴火開始、雷鳴あり
• 5月28日:午前噴火、東方に降灰
• 6月20日:午後8時噴火、北方に軽石が降下
• 6月24〜29日:噴火が時々発生し降灰
• 7月27日〜30日:断続的な噴火、主に北東方面に軽石が降下
• 7月4〜6日断続的な噴火により軽石が南東方面に降下
• 7月7日夕方〜8日早朝:クライマックス噴火、軽石が激しく降下、火砕流と熔岩流が流出、同時に火砕丘が形成される
• 7月8日:鎌原岩屑なだれ(土砂移動)の流出
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7月6日:午後4時より山が鳴り出す。6時より大雨の如く砂が降り、もの凄い雷は五体に響き、鍋釜が割れるばかり。断続して冷光あり。雷は6、70ほど。
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7月7日:午前8時を過ぎても夜が明けず。雷は止むことがない。午後1時より本当の闇となり、夥しい雷。少し明るくなったとき、大火のように赤い。浅間山の雷鳴は大地に響き、大地震のようである。この夜の大きな雷は130,40ばかり鳴る。
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7月8日:朝は晴、午前8時より、空が俄かに暗くなる。雷が3,4つ鳴り、大雨のような泥が降る。午後0時より砂の降ること止む。
歴史的事実として明らかなこと
• 天明の大噴火は旧暦7月5日から8日まで続き、8日午前10時頃、突然土石流(土砂移動)が鎌原村を襲った。六里ヶ原にも土石流が流れ、大量の熱泥流が吾妻川に流入し、利根川に大洪水を引き起こした。
• 噴火の後、浅間山北斜面から山麓の広範囲に大量の熔岩塊が流出していた。
• 鬼押出し園付近では長さ2km、幅500m、深さ50mのくぼ地に大量の熔岩が埋まっている。
• これ程の大災害にもかかわらず、当時の古文書には鬼押出し熔岩に関する記録は無い。
鬼押出し熔岩流に関する学説(1)
7月8日、午前10時頃、山頂火口の地下深所のマグマだまりに通じる火道の壁に付着していた半固結状態の熔岩が、最後の大噴火の際に引きちぎられて大岩塊となって、火口から噴き上げられた。その岩塊が浅間山北麓の斜面に落下し、付近の土石を巻き込み、一団となって高速で流れ下った。その後、火口から熔岩が大量に噴出された。
例えば以下のような記載がある
7月8日、前夜の鳴動もますます激しくなり、夜が明けても空一面黒煙に包まれ、夜のように暗かった。そして午前10時頃・・・
浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は溶岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。
しかし7月8日に火砕流が下ったという学説は否定されており、次に述べる考え方が提唱されている
鬼押出し熔岩流に関する学説(2)
7月7日夜から始まったプリニー式噴火により、火口周辺に堆積した火砕物が流れ出し、8日には流出は止まった。8日午前10時頃、熔岩が流下中に下位の山体の一部が熔岩とともに崩壊し、火砕流、岩屑なだれとなって流下した。
他の説として、山腹の存在した柳井沼付近でマグマ水蒸気爆発が起き、吹き飛ばされた熔岩が火砕流となり、火砕流は下流の土砂を掘り起こし岩屑なだれが生じた。その時形成された爆裂火口は、後から流下してきた鬼押出し熔岩の別のユニットにより覆い隠された。
浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまった。西側の丘の上に観音堂があり、ここに逃げ登った人は幸いに助かった。当時50段の石段があったが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っている。岩屑流・泥流は吾妻川を一時的にせきとめ、やがて堰がきれて、下流に熱い泥水がおしよせ、沿岸の村々を襲った。
熔岩流および鎌原土石流に関する既存の学説に対する疑問点
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何故か液状マグマが流出したという見方は少ないようだ
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火砕物が落下したとき、何故火砕流が起きなかったのか?
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火砕物ならば火口全周に堆積すると思うが、今回の熔岩は浅間山北斜面に限局している
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浅間山中腹から鎌原村までは約9km、標高差500m。かなりなだらかな傾斜であり、果たして高速のなだれ現象が起きるか?
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土石流、岩屑なだれで長さ2km、幅500m、深さ50mの巨大なくぼ地を作ることが出来るであろうか?
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水蒸気爆発などなら土石なだれが周囲へも拡がると思うが
今回鬼押出し熔岩堤防ならびに熔岩流の斜面のつめ跡を検証し、鬼押出し熔岩の出方、ならびに鎌原土砂移動(土石流)に関する、新しい見解が得られたので、発表する。