鎌原村を襲った土砂について

 

従来からの考え方

 

八日、昼四ッ時半時分少鳴音静かなり。直に熱湯一度に水勢百丈余り山より湧出し、原 一面に押出し、谷々川々押払い、神社、仏閣、民家、草木何によらずたった一おしにおっぱらい、其跡は真黒に成、川筋村村七拾五ケ村人馬不残流失、此水早き事一時に百里余りおし出し、其日の晩方長支まで流出るといふ。此日は天気殊の外吉故、川押し有るべき用心少もなく、焼石降るべき用心のみ致し、各土蔵に諸道具を入、倉に入昼寝 致し居、油断真最中、おもいの外にたった一押しに押流し人馬の怪家数を知らず、凡一万七千人と申風聞、実の所未知。此節皆々七転八倒、譬ヘべき様無之、折節川の方能見る者壱人もなし。命を捨て身物所で無之。「無量院住職記」
とあり、七月八日四ッ半時(午前十一時)に、山頂から熔岩流、砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し、アッという間に上州側の北側を流れ下り、六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし、傾斜を嬬恋、長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)。

 

または

7月8日、前夜の鳴動もますます激しくなり、夜が明けても空一面黒煙に包まれ、夜のように暗かった。そして午前10時頃・・・

浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は熔岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下った。しかし、最近では、その堆積物の見られる範囲が鬼押出熔岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もある。

 

他の考え方

鎌原火砕流・岩屑流に関しては、7月8日午前10時ころ、中腹のくぼ地辺りで大きな爆発があった。現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり、この強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した。このため流下しつつあった鬼押出熔岩流の一部が巨大な岩塊となって北麓の土砂、沼地を掘り起こし土石なだれとなって北麓を流れ下った。これが鎌原火砕流と呼ばれているが、実際は岩屑なだれと呼ぶのが正しいという。その他には噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられており、火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させた。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、火砕流が起こったと考える人もいる。

浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没させたという考え方が一般的である。

 

鎌原村の発掘調査は、1979年に始まり、以来13次にわたって実地された。発掘調査の結果は、十日ノ窪の埋没家屋の一部に火災を思わせる部分があったものの、ほかのすべてにおいて、建築用材、生活用品に焼けたり焦げたりした形跡は認められなかった。一方、火山地質の検討からしても、鎌原村を覆う押し出しによって堆積した層の中で、天明3年の噴火の際、直接火口から飛び出した熔岩は、全体の熔岩中5パーセント前後であることが判明した。このようなことから鎌原村を襲った押し出しとされる現象は、熱泥流とされるものではなく、常温に近いく、しかも乾燥したものであることが明らかとなり、“土石なだれ”と呼ぶこととなった。
鎌原村の被害は、江戸時代という比較的新しい時代のできごとであり、その状況を示す古文書や記録類も多く、また、言い伝えもあが、発掘調査によって得た知見は、その多くが古文書や記録類では知ることのできなかった新事実が明らかとなり、言い伝えなどとはかなり異なるものもあった。

 

鎌原土砂移動に関する仮説

 

大噴火の当日、それまで3ヶ月ほど断続的に続いた噴火現象が静かになり、晴れ上がった夏の午前を村人はほっとして過ごしていたという。現在の嬬恋村鎌原(旧鎌原村)は突如、火砕流・岩屑流(土石なだれ)・泥流などのいずれかに急襲され、あっというまに土砂の下になったといわれ、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げた93人のみであった。発掘調査をした人の話では家屋、家財道具などの痛み具合からは、土砂による押出した力は従来から考えられたような高速でしかも強力な圧力ではないという。そして土砂が襲ってきたとき、高い方へ逃げた人は助かり、土砂を背にして逃げた人は埋もれてしまったという。地元の人の話では、旧鎌原村から観音堂の石段までは急げば5分位で到達できると言う。そして50段の石段も健康なひとであれば5分以内には登れるであろう。土砂移動をみてから逃げる時間は少なくとも10分くらいはあったのではないか。

 

大量の熔岩が雪崩を起こして柳井沼に突っ込んだとき、大轟音が聞こえた。この大轟音は火山の噴火とは違う大きな音で人々は外へ出て、浅間山の方を見上げた。しかし、残念ながら旧鎌原村からは小高い丘がじゃまして浅間山はみえない。しばらくするとざざーという泥水が小熊沢に沿って流れてきた、次いでピチピチといいながら熔岩を混じえた大量の土砂が押し寄せてきた。逃げろと言う声とともに、その時、高い方向かって逃げた人と、下へ向かった逃げた人に分かれた。逃げ出す程度の時間的な余裕はあった。

 

土砂移動のスピードについて

 

従来からかなりの高速で鎌原村を襲ったと考えられているが、中腹から吾妻川への傾斜は緩やかで、土砂の時速30から40kmくらいではないかと推測される(私の考えでは時速100kmなどいうことはない)。しかも

 

大量の土砂は御林(一里あまりの松林)を押し倒しながら北へ向かう時、有る程度スピードが落ちるはずである。

 

土砂の流れは時速30から40kmくらいではないか(私の考えでは時速100kmなどいう岩なだれではない)。鎌原観音堂の石段の五十段付近で見つかった老若二人の遺体も流される事なく、石段のところで倒れていた。もし、時速100kmほどの高速の岩なだれであれば、二人とも流されてしまうであろう。

 

鬼押出しとは

 

浅間山の地底で鬼が暴れ「岩を押出した」との言い伝えであるが、私の考えでは、加えて、斜面に堆積していた大量の熔岩が浅間山中腹の広範囲に水、土砂を押出して、天明泥流を引き起こした。即ち、押出したものは大量の熔岩と大量の土砂である