古文書に書かれた天明三年七月八日の様子
荻原 進著の浅間山天明噴火史料集(I〜V)より信頼できる記録を抜粋した。ただし、長野県側からの記録は天明雑変記(佐藤雄右衛門将信)を除き割愛した。
1.沙降記(伊勢崎藩 関 重嶷)
八日:亭午(真昼)雷鳴沙降漸ヤム。差午(昼後)泥―雨ニワカニ降る。地下頻りに震える。而して先日の震動と異なり、方処定まらない。衆これを怪しむ。
2.小諸藩日記(牧野八郎左衛門)
七月八日:天曇、浅間焼今朝強事夥敷。大筒を乱打ニ致候様音を出し、火勢大風之趣居宅江響き渡る事家内ニ鎮居次第也。
3.浅間山焼砂石大変地方御用日記(上野国碓氷郡下磯部村名主 須藤源左衛門)
朝よりは夜中同様やミニて何事も不相知候。右焼出候音并雷之音しんどうニて天地もくつがえすごとくニ相見へ申候。漸八日昼時ニ砂石ふり候儀も相止ミ并雷の音震動も相止ミ申候て昼時より余程之内どろ雨多分降掛り申候。
4.足利学校庠主日記(抄) 千 渓
八日の朝五ッ時又暗になりて行燈にて朝飯する時に雨一陣来りて草葉木の葉を半に洗ふ。併かし雷声の如きものはなく間断不止砂降る。午る時山鳴少く止む。
5.浅間大変覚書(上野国吾妻郡大笹村 無量院住職)
八日昼四ッ半時分少鳴音静なり。直に熱湯一度に、水勢百丈余り山より湧出し、原一面に押出し、谷々川々押払ひ、神社・仏閣・民家・草木何によらずたった一おしにおっぱらい、其跡は真黒に成る。
大方の様子は、浅間涌出、時々山の根頻りにひつしほひつしほと鳴り、わちわちと言より、黒煙一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙り一面立よふすしれかたし。
6.浅間記(浅間山津波実記)(上野国吾妻郡原町 富沢九兵衛)
七日ばんより八日ノ朝迄其焼ようのすざましさ、拾里四方ニて戸かきもはづるる程にゆれわたり大地ニひびき焼る。八日之四ッ時既ニ押出ス。浅間山煙り中ニ廿丈斗り之柱立たるごとくまつくろなるもの吹出スと見るまもなく直ニ鎌原ノ方へぶつかへり、鎌原より横え三里余り押ひろがり、鎌原、小宿、大前、西窪四ヶ村一度に押はらう。
7.浅間山大変附凶年之事 (上野国吾妻郡須賀尾村名主 伊兵衛)
七月四日より八日四ッ半迄昼夜しんとうするは言語にせつし驚入事度々ニ及。八日朝未(巳)ノ上刻に泥水火石を押出、鎌原宿大前村小代村の方へ三方押出。
8.浅間山大変実記 (上野国群馬郡渋川宿 蓉 藤庵)
七日夜半過砂石降止ければ人々安堵の思ひをなさし所に八日の朝震動前に一倍して此度ハ泥水に大成火石を交え数十丈に吹上東北の流落、上毛吾妻郡大前鎌原西窪赤羽根無ニ無三に押流し、人民牛馬泥に漂ひ家財火石の為に流れながら焼亡する。
9.浅間焼出大変記 (大武山義珍)
八日朝より間もなく鳴神之如く、みな草木迄大風吹来ル如くニゆれわたり。四ッ半時分信州木曽御岳、戸隠山ノ辺より浅間山へ光り物飛入と見へしより鎌原村を初めとして川北大前村より川附村々押通候。第壱番の水先黒鬼と見得しもの大地を動かし家を囲い、森其の外何百年共なく年をへしたる老木皆押しくじき、砂音つなみ土を掃立、震動雷電し、第弐の泥火石百丈余高く打ち上け、青竜紅の舌をまき、両眼日月の如。一時ばかり闇の夜にして、火石之光雷百万の響き、天地崩るることく、火焔之ほのふそらをつらぬくはかり。
10.浅間山荒頽村里記事
八日昼四ッ時別而震動強。折節山之北西之方三ヶ所より焼ヶ破り泥水吹出シ、矢ヲ突ク如ク押出シ、行躰真ッ先は黒雲覆ヒ中ニ火焔相見へ、火石ヲ先為テ立木大木抜キ倒シ行事誠ニ水勢之業とは見えず。
八日昼五ッ時より曇り雷強クして砂石降事前日之ことし。漸ク九ッ時ニなりすこし晴れ震動も静に相成候。
11.浅間山変水騒動記
翌八日寅の一天浅間山砕ぬるかニおもふ程の音侍り、是は山近辺の者物語す。此時火石泥水山の北浦(裏)より吹出し鎌原大原(前)吾妻の郡江押出す也。
12.浅間山焼覚 (上野国群馬郡新堀村 惣代 伝左衛門)
八日砂降止頃に及て山のわれる程に震動して金輪際より泥火石山天江吹上ケ黒雲に交へて其時国中に泥降。山の穴より泥火石山のことく押し上ヶ北低場の方へかへりて麓の大木を押抜、大笹村原野郷村人民逃る間もなく牛馬家財ニ至迄どっと一度に押払われ、夫より狩宿村江押下し、吾妻川江押込、数拾丈も高く泥火石谷一杯に成りて押ル。
13.浅間山焼に付見分覚書(幕府勘定吟味役 根岸 九郎左衛門)
この度浅間山焼にて、右の通り泥石等吾妻川へ押開候儀何れより湧き出るか。浅間絶頂ニ有之俗ニ御鉢と唱へ候所より湧こほれ候儀ニもござろう。または中腹より吹破候とも申候とも。
14.天明浅嶽砂降記 (上野国佐い位郡伊勢崎藩 常見 一之)
七日にも鉢料より泥を北の麓古の石留りまで推出す事度々なれども近辺の者ども先年の石留より下へはよりも来らじと油断して居ける所に前代未聞の大焼となり、八日の辰の刻頃鉢料より石泥を数百間高く吹揚柱の如く衝立テ(此日巳刻過上州まで黒き泥ふりける)天も堕ち地も裂るる斗なるすさまじき音にて北のほうへ倒れ、高サ数十間幅弐参里に盪汎まり鎌原へ推来れば足弱の老人共は遠く逃るる能はずして少しの堤へ登るに、其前へは来らずして拾弐三人助かりしが足丈夫なる者共は高キ山へ逃れんとて遥遠く逃出しに火石泥中に燃えながら浮きつ沈みつ転倒し、家を槯き木を倒し忽ちに追つめて或は流し或はひしぎ、鎌原子宿芦生田村一トに推に推抜て吾妻川の谷に入り泥はあとより推つづき穴の中より盪来る。
15.信州浅間山焼附泥押村々絵図(上野国那波郡連取村 森村新蔵)
八日四ッ時頃震動至て厳敷、地破浅間山此時焼崩れぬかと怪しむ斗。
八日辰の下刻頃と覚しき時浅間嶽焼崩るるかと怪しむ斗なり。然るに樵夫嶽を詠居しに巳の時頃川霧の如く絶頂より立て既に嶽の東西を覆うと見へしが、何となく雲霧の中にざわざわと言う音有り。たとえて言バ茶釜より熱こぼれるか如し。浅間山子丑の方へ焼崩れ火石熱泥吹出し、其火石熱泥払出す事如何ほどという斗なし。麓に御巣鷹山とて一理余の千歳経る松の木立有、即時に此御林江流れ落、夫より小沢小山の差別なく押埋ミけれとも峻岨の地なれハ厳石に当りて二筋に別れ、一筋は鎌原村江押出し一筋は大堀沢へ押出て大笹前より大前村を押通りて吾妻川江押出し、夫より両縁の村々男女流死のものかぞへかたし。又浅間嶽に近き在所ハ鎌原村也。八日巳の刻頃より思ひもよらず熱火石一旦に押来、一村百五拾ニ軒有之民家男女牛馬に至る迄掌を打間もなく押流す。
浅間嶽の麓より利根川筋上武の境迄ハ凡河路四十里程も有。然るを浅間より泥押出せしハ巳の刻也、武州栗橋辺江未の刻にハ流れ行く。凡そ四十里にも及ぶ処二時斗之内に押行事何かは以てたまるべき。
16.砂降候以後之記録(上野国新田郡世良田村 毛呂 義卿)
八日の四ッ時震動も止み候処泥少し降り候にて空も漸晴申候。此泥甚タ目方が有り所ニより余程降候所も在之由。
17.信州浅間山之記(上野国新田郡世良田村 毛呂義郷)
浅間も北面はナダレ長くして遥なり。其のナダレに長さ二間もある谷地東西に長し、谷地ハ水つきの所なり。谷地よは又さがりて北に松林ありて大木多し。余ノ大木もあり御林なり、世間にくろふといふ。それより北は鎌原村なり御林よりはさかりたる所なれ共なだれの内ニては一段高き所なり。鎌原の内字ニ瀧原という所あり、家ノ十四軒もある所本村を離れて谷地に近き所ニ居住ス。六月ノ初瀧原ノ者草刈ニ出て谷地ヲ見候へば谷地の泥二間斗湧きあかれり。是を見て甚だ恐れ家に帰り余人ニ告知らせ相談し皆家財を持運テ立退キヌ。八日の巳刻右の谷地ノ泥湧き上り数十丈高くなり、此泥北へかへり松原を抜き直に鎌原へ押掛り家数二百軒余人六百五十七人皆ひかれて死ス。
18.上州浅間山焼出し砂降り次第(上野国群馬郡坂井村 大久保某)
其日四ッ時分ハ泥と替りて一トさハら降り、草木も枝を垂れ大雪の如ク目さましき有様也。最早九ッ時分思ひしかは砂石ふり止ミ、利根川の河上ハ鳴りひびき大風吹きやと思ひ天の曇りも薄々と見ゆ。皆々大キニ悦シ折しも利根川にこりて来て家財木一面に流行。
19.利根川五料河岸泥流被害実録(上野国波郡五料川岸 問屋 高橋清兵衛)
八日之朝通して砂降り凡厚さ五六寸も降候様ニ相見候。八日明六ッ時は晴天ニ成り候処又朝五ッ時ニ成闇夜の如く相成り朝飯もあんどんニて給る。四ッ前ニ到天気ニ成ル。最早震動も雷もなくなり候へは何事も有間敷哉と少は心も休り候処、七月八日昼九ッ前又々少し震動ノきみどろどろいたし候へとも晴天ニて有之処表ニて舟之もの共声々ニ利根川より大水之由。
20.浅間山焼抜利根川筋泥入聞書集(武蔵国児玉郡西今井村 柴崎 某)
八日ノ四時過迄右之ごとし。其後雷もやみ砂も止ム。ようよう安心致。次ニ八日の昼過ヨリ利根川大水致す。是は浅間焼抜、西北ニ山林有て其山林ヲ押抜利根川エ押出す。石砂泥火石材木人馬共ニ流レ来リ、大岩は三四間四五間ノ大岩なり。
21.高崎記録
八日卯の刻に到りて浅間山より火石湯ノ湧出て吾妻川エ押し出シ、人ノ死スル事何万人ト云フル数ヲ知ラス。
22.癸卯災異記 (高崎藩儒 川野辺 寛)
夜明けに天腹た赤く須叟にして腹た淡黒なり。東方漸く明るく卯後腹た闇く後明るし。遂に大明となり雷亦息み砂石自らつきて微雨なり。
聞くに、七月八日午可り、無雨無風にして遥かに恐々の声を聞く。土民奔走し大水至ると呼ぶ。
此災の起るや浅間絶頂猛炎雲を焦がし大石飛落つること雨の如く、泥塗の沸騰する七月六日より八日に到る凡そ三なり。其の二は湧く熔流は二里を過ぎず、三に到りて大沸騰し、直ちに谷間に落ち、山容堕って崩阤し吾妻川に突入す。
且や水泥の発するや泥流未だ詳然ならず。あるいは曰く、七月十五日軽井沢の人其の発源を窮めんと欲し三人して山の西を攀じて遥かに絶頂を望むに、火抗の北辺決れ、其の状注子(銚子)の嘴に似て熔岩の痕在り、他に崩地の所を見ず。火抗は即ち土俗称して於波智(お鉢)といい於加末(お釜)というものあり。古人言有りて、水は火よりも柔しと。而して水の患惨ああ今まことの災いなり。水火並び虐して土之れに乗る三害の遇う所。国初以て未だ聞かず、国家の一大災人民の一大厄と謂うべきなり。
22.砂降り以来三年日記 (上野国碓氷郡東上秋間村 石井与左衛門)
漸々と七日の夜は明け、しかれども砂石はいまだ降りやまづ、漸々昼の四ッ時より砂石ともにおたやみれば人々ほっとためいきをつき、こわい夢を見てさめたる心地して表に出て田畑四方山々を見るに青いものは少しもなし。
北大笹の川通りにては浅間山ふもとより八九間或十間余りの火石ぬけ出て川を〆切村々へどろ水あげ家ぬけて流るること其の数限りなし。かん原にて家数百八十軒程ぬけ男女とも死て流るる。
23.信濃国浅間嶽焼荒記 (上野国碓氷郡原市村 成風亭 春道)
八日朝は軽石の如く石降、震動雷電ハ少シなるく成る。辰ノ下刻はらはらと降止ように成りぬる。
天明三卯年山焼の後上州より見るに以前よりは余程高く成りて見ゆる。分ヶて北の方高く見える。麓より登る事凡拾程絶頂ニ穴有り、凡廻り三拾丁程、其深キ事数百丈、譬は竹の切口より中を見る如し。真直にして滝の落るが如し。筋有物色黄也。底に火有り、燃立有形至て赤し、後鉢料といふ。穴の東に並ひ前掛山有り。東南より見るに此前掛山の絶頂より煙出る如く、三方共に屏風を立し如く、中の釜を覆ふ。但釜山と前掛と頂隔てる事凡三丁程、是を無問ヶ谷という。(注:一丁は110m)
浅間嶽絶頂より火石熱泥押出し吾妻川江落合、両縁川付の村々流出。鎌原村江は当月末の頃より時々して小砂小石降し斗り。七日頃は震動厳敷鳴渡ル成レ共夜に入て少しなるくなり、八日辰ノ下刻頃と思敷時震動甚しければ、守破や浅間焼崩ぬルと怪しむ斗り。然るに樵夫嶽を詠め居し処に、巳ノ刻頃沢々川霧の如く覆ひ、絶頂より沸出し、既に東南を覆ふと見へしが、何となく雲霧の中にざわざわと云う音あり。爰に譬て云ば茶釜の口より熱泥溢レし如く、浅間山子丑の方焼崩、火石熱泥吹出し、其熱泥火石湧出す事何程という事を知らず。
鎌原辺へ押出せ火石、長三拾間横弐拾間位の堅横弐拾間位の火石何程といふ数を知らず。其石銘々ピチピチといふ音有。(注:一間は六尺で約1.8m)
24.浅間焼見聞実記 (上野国甘楽郡宇田村 横田重秀)
浅間山北裏吾妻郡にては鳴音のおそろしきのみにて砂もふらずして八日の朝辰の刻ばかりより空晴はたりぬれば人々よろこび男女とも世渡の業に取りかかり草刈または畑などへ出ぬるものもあり。巳の刻ばかりと思ひし比、浅間嶽より泥押出し北うらへ流出、吾妻川へ押出す。
25.浅間山大焼一件記 (上野国甘楽郡菅原村名主 長左衛門)
浅間山の焼之事是迄の度々なれとも、今度は浅間焼れは雷二日も三日も止事なく鳴て石砂を降らし、或いは晴天に川満水、泥火石押出して人或いは牛馬家田畑を流し候。誠に天のなす所なれは、時節来てまだ此上ニも何様事あらん。
乍恐以書付奉願上候
去る七月中浅間山焼山津波にて火石夥敷押出し、浅間腰御留山凡東西弐里半程南北壱里半程の間火石悉押重り、凡高弐丈程の岩壁に罷成候。右岩下より湯涌出申候所以今さめ不申候に付末云々温泉にも相成候はば拙者湯開き仕度奉存候
天明四辰壬正月
26.明和安水記 (上野国多胡郡下日野村 小菅義武)
翌八日明六ッ過漸止む。
浅間山焼石崩出其所よりどろわき出、雨ふらずして利根川満水して吾妻村杢村人家流れ人の屋敷跡方もなくなり、人馬死ぬる事数を不知。
27.信濃国浅間山大変日記 (碓氷峠熊野社神主 曽根出羽亮忠名)
北上州吾妻郡にては浅間山中程に石とまりと申す所迄先年三度押出し候へとも、石留りにてとまり候へば是より下へは押出し申しましと心得、只石砂の降る事のみ用心いたし、岩穴等を心掛はいりしに、八日震動する事大風の吹くことく神仏の社堂をゆり押崩し、四ッ半時浅間山嶺子丑の間より山鳴崩れ沼押出し、大石大木押したをし、鎌原村を初としそれより羽尾村へ出吾妻川へ押込み川付近村々押流す。第一番の水先ニ黒鬼と見へしもの大地を動し、村々家々森林惣て何百年とも不知老木を押倒し土砂を捲上立。震動雷電して第ニ番泥火石ハ百丈余も高く打上、青龍の乱たる如く一時に闇夜の如くなり。吾妻川利根川右川附村々朝四ッ時に湧出し、昼八ッ半時にハ武州熊谷谷在中瀬村迄押出す。
28.天明雑変記 (信濃国佐久郡香坂村 佐藤雄右衛門将信)
八日巳刻迄ハ大鳴動。午刻より追々焼も弱く成鎮る体にて、最早大石火玉も降へきようにも見へさり。
29.信州浅間砂降之記 (上州藤岡高崎より書面ヲ以注進之写)
七日夜中も魂身にそはす。八日巳の刻迄同事也。夫よりすこし晴れ灰降事も少く、漸午の刻に至り空も晴れ懸かり雷も薄く砂石も薄らぐ。
30.天明浅間焼見聞録 (近江国神崎郡山上村 端 庄兵衛)
漸く八日朝になり少シハ小降ニ成ける故降積りたる砂見るに凡弐尺斗り。雷も遠さかりければ家々屋根へ上り降積りたる砂をはき落し候ニ四ッ時ニ真黒成泥之降事夥敷。其泥の金くさき事鼻をうかつ斗なり。
31.加賀藩史料 (政隣記)
八日暁寅上刻より又強し。辰ニ刻大に甚強く、同五刻殊の外強く頻に鳴動天地如為反覆。向静謐鳴動止。七日暁寅より八日右の刻限まで一昼夜余の間無絶間鳴動、夜も同じ。暫宛止間有。
以上
酒井が公開した古文書より
信州浅間山大焼砂降泥押大変之事
八日之朝少し晴。又五ッ時、空曇り俄ニくらく成。雷三ツ四ツ鳴と泥降こと大雨の如し。併是半時斗降晴ル。先此日九ッ時より砂降事止り。惣て此ニ・三日昼晴ル事朧月夜の如し。昼皆黒煙り也。