多くの史料から7月8日の様子を推察する

6時ごろには晴れてきたが、8時ごろ再び暗くなり、10時前後に泥雨が降って来た。その後は震動も少なくなり、12時頃には降灰も止んだ。

 

水・火石・泥の押出しが始まったのは午前10時頃である。其の時の状況は大筒を乱打(小諸藩日記)、震動前に一倍(浅間山大変実記)、浅間山砕ぬるかニおもふ程の音(浅間山変水騒動記)、山のわれる程に震動して(浅間山焼覚)、震動至て厳敷、地破浅間山此時焼崩れぬかと怪しむ(信州浅間山焼附泥押村々絵図)、頻に鳴動天地如為反覆(加賀藩史料)などと記録されている。

そのほか注目すべきものとして、地下頻りに震える。而して先日の震動と異なり、方処定まらない。衆これを怪しむ(沙降記:2時間のずれがある)、鉢料より石泥を数百間高く吹揚柱の如く衝立テ、天も堕ち地も裂るる斗なるすさまじき音にて北のほうへ倒れ(天明浅嶽砂降記)、雲霧の中にざわざわと言う音有り(信州浅間山焼附泥押村々絵図)、谷地ノ泥湧き上り数十丈高くなり、此泥北へかへり松原を抜き(信州浅間山之記)など。

 

火石・泥の押出しについては、浅間山煙り中ニ廿丈斗り之柱立たるごとくまつくろなるもの吹出ス(浅間記)、山之北西之方三ヶ所より焼ヶ破り泥水吹出シ、矢ヲ突ク如ク押出シ(浅間山荒頽村里記事)、山の穴より泥火石山のことく押し(浅間山焼覚)、浅間嶽絶頂より火石熱泥押出し吾妻川江落合(信濃国浅間嶽焼荒記)などと記録されているが、実際は10時頃の浅間山周囲は暗くなっており、泥、火石の流下などを見ることはできないはずである。ほとんどは想像の域を出ないと思われ、火口から泥が出たとは考えられない。

 

史料集から参考にすべきは、10頃の震動音の様子、泥雨が降った事などである。震動はかなりひどかったようだが、火柱が立った様子ではない。真黒なものを吹き出して(浅間記)、石泥を噴き上げて(天明浅嶽砂降記)、泥水吹き出し(浅間山荒頽村里記事)、泥火石山のことく押し(浅間山焼覚)など、まず最初に泥が噴き上げられた記録が多く、10時頃上州に降った泥雨と関係があるようだ。当然のことながら泥の噴き上げは火山活動によるものではない。

 

泥が涌き出た場所は、信州浅間山之記に谷地ノ泥湧き上り数十丈高くなり、此泥北へかへり松原を抜き直に鎌原へ押掛り家数二百軒余人六百五十七人皆ひかれて死スとの記録がある。また、幕府勘定吟味役、根岸九郎左衛門は泥石等吾妻川へ押開候儀何れより湧き出るかとして、浅間絶頂ニ有之俗ニ御鉢と唱へ候所より湧こほれ候儀ニもあるが、中腹より吹破候(浅間山焼に付見分覚書)、として中腹からの湧き上げた可能性を示唆している。最近の研究では山麓にあった谷地の泥(柳井沼)から泥が吹き上げたと考えられている。

 

泥の押出しを具体的に記録しているのは浅間大変覚書、浅間焼出大変記(信濃国浅間山大変日記は同じ内容)の2つである。前者ではまず熱湯が水勢百丈余り山より湧出し、原一面に押出した。後者では水先黒鬼と見得しもの大地を動かし家を囲い、森其の外何百年共なく年をへしたる老木皆押しくじいた。次いで山の根頻りにひつしほひつしほと鳴り、わちわちと言より、黒煙一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙り一面立よふすと泥に混じった火石から煙が出て様子がわかる。また泥火石百丈余高く打ち上け、一時ばかり闇の夜にして、火石之光雷百万の響き、天地崩るることく、火焔之ほのふそらをつらぬくと記録している。かなりオーバーな表現であるが泥にはかなりの火石が混じっていたことが理解できる。この両記録とも四ッ半時分(11時頃)とされているが、11時頃とは泥が吾妻川へ押し寄せた時間ではないか。これらが事実とすれば、水・泥・火石の押出しが10時頃始まって、吾妻川へは11時ごろ押し寄せており、泥流の時速は時速10kmということになる。

 

最近の研究では水泥の押出しは浅間山中腹にあった柳井沼から出たものとされている。沼の水は頻繁に発生した火砕流によって熱湯に変わったようである。大量の熔岩の雪崩によりまず泥水(熱湯)が押出され、泥水は沢沿いの低い所を流れ吾妻川へ流下した。次いで大量の地下の泥が火石(塊状熔岩)とともに押出され、森林をなぎ倒しなが北麓へ向かった。最初は有る程度のスピードで流れたが、森林を倒す際にはスピードも落ち鎌原村へ到達する時はかなりゆっくりとなった(従来から云われているような時速100kmなどということはない)。泥に混じった火石は高温でありピチピチという音を立て水蒸気を噴き上げていた。鎌原村の人々は浅間山を直接見ることはできない為、異様な音に気がついたが、まさか泥が流れてくるとは思わなかった。まず低地の小熊沢を流れた泥水にびっくりし、その後押出してきた泥・火石に驚き逃げ出した。いわゆる津波と同じくらいの速度であったが、ある人は観音堂へのぼり助かった。しかし多くの人は下に向かって逃げたが、泥の流れの方が速くて皆埋まってしまった。