いかにして鬼押出し熔岩流が発生したか

歴史的事実として明らかなこと:

1)天明の大噴火は旧暦7月5日から8日まで続き、7日夕から8日早朝までがクライマックスであった。8日午前10時ごろ、突然土石流が鎌原村を襲った。

2)六里ヶ原地域にも土石流が流れ、大量の熱泥流が吾妻川に流入し、利根川に大洪水を引き起こした。

3)噴火の後、浅間山の北斜面から山麓の広範囲に大量の熔岩塊に流出していた。熔岩海は山頂から5.5km(水平距離)、広さ6.8平方キロメートルにわたりにできた奇勝地である。しかし、大噴火によりこれ程巨大な熔岩海が出来たにもかかわらず、当時の古文書などには、いつ、どのように熔岩流が始まったのかの記録はない。

仮説(酒井康弘)

7日午後、吾妻火砕流と同時に高温融解体(液状)マグマが火口縁の北側低所から流れ出したマグマは山頂から真っ直ぐに下った(前掛山の縁でブロックされたため)マグマの高さは8から9メートル程の大量のマグマが流下した緩斜面にて二方向へ分かれた→緩斜面ではマグマの流れが遅くなり、熔岩が凝結し始めたしかし中央部を流れるマグマは高速であったが、傾斜地がゆるやかになる柳井沼のあたりまで達した→1000度の熱いマグマが柳井沼に入ると、沼地の水は熱湯に変わった黒豆可原に向かったマグマは流れが遅く、中腹から緩斜面で徐々に凝結し始めた液状マグマの流出が止まると、プリニー式大噴火が始まった火口の地下深所のマグマだまりに通ずる火道壁に付着していた粘性の高い半固結状態のマグマが、引きちぎられて大岩塊となって、火口北斜面から流出した塊状岩塊は熔岩流の中央部に沿って下方に流れた一般に火砕物が落ちるときは火砕流を生じやすいが、斜面にはすでにマグマが被って粘着性があったため、多くの岩塊がゆっくりと流れ緩斜面で止まった徐々に熔岩が流れ緩斜面での堆積が多くなると、急斜面にも止まるようになったこの時の熔岩の高さは30m以上に達していたと思われる最後はマグマ内で固まった火山岩が噴き上げられたこの岩石は塊状熔岩の集積の上止まった8日早朝には熔岩の流出は終わった午前10時ごろ沼地のある柳井沼のある中腹付近に地震が発生した(空になったマグマだまりに、山斜面に堆積した大量の熔岩塊の重みが加わり地殻変動を起こした)そのショックで斜面に堆積していた熔岩全体が大轟音と共に雪崩を打って落下した沼地の地盤が弱いため、大量の熔岩が、幅500m、長さ2km、深さ50mほどの範囲に、剥離した熔岩と共に熱湯、沼地、地下水を含む大量の土砂を前方へ押出した溶岩多く熱湯を多く含む泥流は土砂移動となって吾妻川へ、熔岩の少ない泥流は鎌原村へと押出された移動のスピードは時速20〜30m程で、従来から考えられていた高速ではないようだ入りきれない熔岩塊はさらに周囲に流れた。

以上の仮説から、広範囲の鬼押出し熔岩海は、鎌原村が埋没したと同時に生じたものと考える。

                                               

注:液状マグマが流れて緩斜面で凝結した熔岩と浅間園、鬼押出し園周囲にある塊状熔岩はまったく異なる。この塊状熔岩は黒褐色で形の整った安山岩が多く、所々に熔岩が盛り上がったものや、巨大な岩塊も混在する。またその塊状熔岩とは少し異なる表面が平滑で灰色の火山岩も鬼押出し園の入り口あたりに多く見られる。塊状の鬼押出し熔岩は幅500m、長さ2km、深さ50mくらいの巨大なくぼ地に埋まっていると言われている。

利根川に大洪水を引き起こした大量の天明泥流と言われるものは、大量の熔岩塊が中腹付近を広範囲に押し出したことによる土砂移動である。